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2008年3月30日 復活後第1主日 使徒2:22-32・1ペトロ1:3-9・ヨハネ20:19-23 説教「復活の夕べ」長島慎二兄 多くの人にとって、聖書は教訓であり、歴史であり、哲学であり、また物語です。しかし、聖書の本質は神の真理です。イエスという人物が十字架に架かって死んだという記事は、キリスト者でなくても認めることができる歴史的事実ですが、それが神の子であり、三日目に復活したことはキリスト者にとって真実です。 とはいえ、実際には、キリスト者であっても、ともすれば、十字架の死と復活の間には大きな隔たりがあるのではないでしょうか。「死と復活」というふうに並び称される二つの出来事は、わずかに一日という時間を挟むのみですが、これを受け入れることに大きな違いがあるのです。わたしも、クリスチャンになった後、息子を亡くして初めて主の復活ということが身に沁みました。 聖書によれば、キリストと共に旅をし、その大いなる御業を仰いできた弟子たちですら、キリスト自らお教えになった十字架と復活の予告を理解できなかったことを伺うことができます。その弟子たちに、復活の主は目の前に身を現し、喜びと確信をお与えになりました。 実は、先週の復活日の福音書の記事は、復活の朝、女の弟子たちにキリストがその身をお現しになった出来事であり、本日の記事は、同じ日の夕方に男の弟子たちにその身をお現しになった出来事であり、来週の日曜日の記事は、さらに一週間後にトマスにその身をお現しになった出来事です。 結局、弟子たちは、それぞれが直接、復活の主と出会うことによって、これを受け入れ、喜んだのです。いずれも、復活の主と出会うことを予期し、期待していたのではなく、復活の主のほうから、疑い惑う弟子たちの前にその身を現されたのでした。 わたしたちも、それぞれが、異なったかたちで復活の主との出会いを体験しています。しかし、それは、いずれも、キリストの恵み深い働きの中でなされたものであることを心に刻む必要があります。 さて、復活の日、まず、主は、マグダラのマリアに現れました。マリアは、そのことを男の弟子たちに伝えました。しかし、男の弟子たちは、ユダヤ人たちを恐れて、自分たちの家の戸に鍵をかけていました。そのときに、突然、復活の主が現れたのです。明らかに、復活の主は、霊の身体をお持ちでした。そのことだけでも弟子たちはどんなに驚いたことでしょうか。その弟子たちに向かって、主は「あなたがたに平和があるように」と挨拶をなさいました。非常時に、いつもの挨拶の言葉をかけられたのです。しかし、実は、このとき、主は、もう一度、「あなたがたに平和があるように」と言葉をかけておられます。最初は、驚き恐れている弟子たちに赦しを与えるものであり、後者は、続けて使命をお与えになっています。そう、復活の主は「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃったのです。 ここに、主の復活の意味が示されています。わたしたちは、復活の主と出会うことを通して、使命を与えられるのです。喜びをもって、わたしたちも、今日、主によって遣わされましょう。最後に、わたしも挨拶をいたします。「シャローム、あなたがたに平和があるように」 |